花の色と青い煙草

ダンス・ステップ・スラップスティック

恩師の話。

私がまだ学生で、世界の全てはこの手の中にあったと驕り高ぶっていたころのお話をしましょう。

当時、私は美術系の学校にいて、学生をしていた。まだ17か、その辺りだった。

当時の学科長と話していて、なぜそんな話になったのかは思い出せない。ざっくばらんと話していて、その会話の中でスノッブ的に知識をひけらかす嫌な奴になっていた。若さゆえの全能感もあったし、なんでもインターネットで調べて知ったつもりになって、それが誇らしかった私だったが、次の瞬間。

その高々と伸ばしたひどい鼻を学科長に容赦なく折られたのだった。



「おまえ、よく色んな地方の話をするよなあ?でもさ、それってインターネットで知ったことなんだって言ってたよな?携帯電話で知ったつもりになって、じゃあお前は知ってんのか?」



「例えばさあ、その街の坂のキツさとかさ、早朝の寒さとかさ、日差しの明るさだとかさ、空気の味だとかさ、そうそう、そこの飯の旨さだとかさあ、おまえさんはなあんにもしらねえんだ、そうだろ?」



「家を出ろ、外に出ろ、触れろ、おまえさんの言葉は空っぽだ。触れて、知って、やっと語れる。分かったな?」







なんでも知っているつもりだった私は、その瞬間何も知らないことに気付かされたのだった。

今ふと思うんだ、その鼻を折ってくれてありがとう、いつまでも何も知らないことすら知らずにいたかもしれない。
そして今なら言えるよ、朝焼け前の空気は冷たかった。春に行く長野にはまだ雪があった。蕎麦が美味しい。

だから。

いろいろなことをし続けていけたらいいと思うんだ。

触れて。

きちんと触れて。

真冬の怪物。

その獣、4つのあしを持ち、身体全てを口とし、夜な夜な通り過ぎる人を誘い込み、咥え、そして離さなかったという。民はその怪物を畏れていたがあるものがついにその怪物を倒し、村の中心にその怪物を象った偶像を飾り、墓と祭壇とした。

やがてその祭壇は怪物と同じように人を食い、人を食い、離れられない人を食い。奇妙なことに、食われる人はみな自らその身体を捧げに行っていた。
噛まれただけならば出るのもたやすいはずであったのに、なぜか人は幸せそうな顔をして離れない。
ゆえ、民は名付けた。

「あやつの名、拒脱と呼ぼうぞ。」

名はその偶像の存在を知らしめ、さらに食われる人は増えた。
もう誰も手をつけられないのである。

そのことはのちに伝説となり、その祭壇を小さくしたものはあらゆる家に置かれ、拒脱は訛り、コタツになったそうじゃ。



とまあ長々と存在しない歴史を語りました。

えっと冬のこたつって絶対怪物だと思うし、入ったが最後出られないし、あげくなんか魂を持ってかれた気になるし、そこで果てることも多々あるよね。こたつこわい。
そんなこたつの上に丁寧にみかんとか置いちゃうと余計出られないよね。あ、これ供物だよ多分。
つまりこれは信仰だし、そうなるとそこには神が宿って…と考え出したらこうなりました。

真冬のピークが去った。

クリスマスだとか正月だとか、少し浮かれた年末が過ぎ、成人式なんかも通り過ぎていったらしい。そうカレンダーが示してた。
それでもいまだに街は冬から抜け出さないままで続いていた。

そういえば引っ越してからは夕方の鐘を聴かない。

なんとなしに、去年と比べてしまって、違うことに少し寂しくなった。




なんだかよくばりだなって気付くんだ、満たされることの敷居ばかり高くなって幸せを取りこぼしそうになる。
変わらないでいるって言ったのに、変わってしまうらしい。どうも不器用だな。だから度々、きちんと掴んでいたいと思うのだけれど。

そんなとき、掴み直すための書架があれば、とまで言いかけてハッとした。

私たちには音楽があった。

聴いた音、声、そんなもの自分の感情を重ねて再生できたんだ。

再生ボタンに手をかけて、よみがえれ、心。

人と人ってなんだろうね。

Twitterでポリアモリーについてボソッと呟いたら「理解できない」って言われた。
だからすこし言葉を尽くそうとしてみたら遊び人と片付けられた、ことについて、すこし寂しくなってしまった。
人の好意って恋愛感情しかないような貧しいものだっけ、とか考えてしまって。



以前のエントリーでポリーラウンジの感想とちょっとだけの何かを語っていたと思うんだけれど、本当はそれだけじゃなくてもっと書いてみたいことがあった。でもそれは別にポリアモリーだとか恋愛とか、そんな枠に押し込める話じゃないように思えて、語ることでその話が別の物語になりそうで、怖かった。

でもそろそろ書かないといけない気がしたので今、必死に絞り出してる。


繰り返し言いたいのは、これからの話はポリアモリーの話だとかモノアモリーの話みたいな限られた話でもないし、恋愛とかについての話ですらもないし、人間が二人いたら成り立つ話として読んでほしい、です。




考え始めたきっかけは、恋愛関係で独り占めしたいって話からだった。
私は十数ヶ月前、ある人と付き合っていた。当時付き合ってた人はあなただけをみたいし、私だけをみていてほしいって言う人だった。
それでも別によかったのだけれど、ただふと思ったことがあった。
それが嫉妬からくるものだとして、じゃあどこまで嫉妬するのだろうか、それと、他の人がいたところで私とあなたの間にあるのは常に二人だけの関係で、他の関係があったからといってそれで奪われるものじゃないよね、だった。

たとえばあの趣味についてだったらあの人、この趣味についてだったらこの人、みたいにそれぞれ話せる人、考える人って選んでしまうことは誰しもあることだと思うし、同じように好意ってぼんやりしたものを多くの人にもっていて、一人に絞ることなんて難しかった。
だからこそ、その人に求める役割、みたいなものが自然にできていって、代え難いものになっていくのだった。

そうすると、全部別方向の好意になるんだけれど、時としてそれは恋人に向ける好意よりもたやすく強さを増すことがあった。それについて嫉妬されたりするのだと思うのだけれど、困ったことに恋人への好意はその人には向けられないし、その人に向ける好意も恋人に向けられなかった。
早い話が「あなたはその人じゃないし、その人もあなたじゃない」という簡単なことだったのである。
だからいつだって二人の間にある関係にあるのはその二人で、他の関係に奪われるものではないはずだった。

それを恋人だから奪えるわけじゃないのよ。

そこで思ったことが、別に恋人を一人に限る必要もないし、恋人が好きな人、付き合う人も一人じゃなくていいんだよね、ということ。
方向の違う好意みたいな、その人だから好き、みたいなものがあるなら、どうしてもそれって比べられないし、仕方ないじゃないって。
そこで私はびっくりするくらい楽になった。
好きな人が誰を好いていても、それが無くなったから私が好かれるわけでもないって簡単なことにここにきてやっと受け入れられるようになり、好きな人に対して真っ直ぐな好意を持てるようになった。


それは恋人だからって名前が付いても、全ての友人と対等にあるってことへの気付きももたらすことになった。
恋人とて、そう約束した関係があるだけで、もし友人と掛け替えのない約束を結んだら、それは同じ重みになる。
そして友人だからこそ持てる信頼関係があったとしたら。
恋愛感情はなにも約束してはくれないのです。

だから。

恋愛感情も友情も、どちらが上ってこともないと思うし、二人の間にある信頼関係が重要で、別に信頼って一人に向けるものでもないよね、だから人にどう向き合っているかが重要なんじゃないかな。
付き合うって言葉だって明確に約束した中身がなければ意味ないし。

えっと、なんか話が散らばってしまったんだけど。

言いたかったのは恋人も友人も等しくて、それぞれ掛け替えのない好意ってものがあって、恋愛に関係なく信頼は作られていって、独り占めなんてのも難しくて、だから他と比べても苦しいだけで、せめて相手ときちんと向き合って、お互いが心地よいものを探そうよって。

それがたぶんなによりもいいものを作るし、満たされていくと思うから。

ミラールーム。

いろいろな話をしたり、いろいろな人と話していて、最近ふと感じることがある。
それは言葉の端々から零れ落ちるような、主観であったり、他者についてなのだけれど。
たとえばそれは誰がが言ったことを聞いて、返すための言葉を濁し、溢れさせまいとする、その瞬間に見えたりする。
その度に何故だろう、不理解があるのだなと知ってしまった気になる。


そして。


その度に「目がどこにあるか」といったことについて考える。その目は誰のものですか、といったようなこと、とか。

昔はそういうのをお天道様、とか言ってましたっけ。
どうにも曖昧な、第三者の目と呼べるような何かを持って、自分のことだけでなく他人のことも見てしまう人はいるんだよね。
それがどういうことかっていうと、普通、だとか、周りは、とか、社会は、とか、そういった言葉に頼ってしまう、みたいなことなのだけれども。でもそれって半分くらいは正しくて、たぶん半分くらい別のところにあるんじゃないかと思い始めてきた。

もう一度。

目はどこにありますか。

たとえば言葉にしきれない不快感だとか、なんとなしに許せないものとか、それらに自分自身負い目があるとき、たぶん人の言葉を借りたくなることがあると思う。まるで誰かに見られているような言葉を、誰かから見た自分のことのようにして話してしまうような。
そこにある目って第三者ではないように、そう自分自身が作ってしまった目だと気付けずにいる。

そして目があるなら、見るものがあって。

それって感情なんじゃないかな、と思う。
その感情を自分が許せないこと、それを自分が作った他人が許せないことにして、感情を隠しこむ。そうして、幾重にも幾重にも自分を包んで守っているのかもしれない。
そのことに気付けなくなると、いよいよ自分が見えなくなる、気がする。



自分の手を離れていく目を取り戻してもう一度そのことを見ることは。

目は。

戯けた時間。

深夜というものはどうして、その中に踏み込んだ人をどこまでも尖らせてゆく。

時にそれは悲しくさせたり、時にそれはどこまでも愉快だったりする。
すごくセンチメンタルな詩を書き残してしまったり、なんとなしに最高の絵が描けた気になったりする。


どちらに振れるにせよ、翌日に起きて眺めればそれは一人酒で片付けずに寝た食卓のような、頭を抱えてしまうものばかりだったりするのだけれど。

でも運がいいのか悪いのか、今はSNSがあって、それがいつでもアクセスできて、これが困ったことにその揺れをいくらでも膨らませてくれるのだ。


私の尊敬してる母はそれを知っていた。


「ねえ、深夜に手紙とか書きたくならない?でもね、深夜に書き散らしても翌日に起きて出すために読み返すと恥ずかしいことばかり書いてあって反省するのよ。それで今ってインターネットとかあるでしょう?深夜に変なこと書いてない?」



そう言われ、苦笑いしたんですよね。

母よ、あなたに敵うことは出来そうにないわ。

そういえば好きなバンドも朝を待ちなって歌ってたし、そんなものなんだろうねとも思う。

それでも。

ちょっぴり深夜の騒ぎが好きなのでした。