花の色と青い煙草

ダンス・ステップ・スラップスティック

文書107

久しぶりのショートショートです。

雨がこの街を満たしている。帰るために潮の匂いを思い出そうとしていた。今日は一周忌だからいつも吸っていたタバコと缶ビールを手土産にもっていく。雨がこの街を満たしている。あれからみんなどうしてるのかな、僕は変わる事なく満員電車に揺られている。一つだけ変わったことがあるとすればあのころのように無理に詰めなくても今は電車に乗れる。雨がこの街を満たしている。あの時好きだった彼女も今は別の誰かと付き合ってる。時々寂しそうな顔をするけれど、そのたびに僕は忘れてしまえばいいよと向かいのマンションの屋上から祈る。雨が。
――――――
どれほどそうしていただろう。マイルストーンのように浜辺に突き刺さったガレキの前で一人飲んでいた。静かにタバコをくゆらし、引っかき傷のように彫りこんだ自分の名前を眺めていた。いつもなら安いチューハイだとか発泡酒なのだけれど今日は一周忌だ、そろそろ帰らないと明日の仕事に響くとは分かっていてもビールを開ける手が止まらない。酔っ払った頭はまたいつもの問答を始める。夢の中くらい仕事をしなくてもいいのに、と思うのだけれどずっと見てきた景色だからいまさらやめられないし、不思議と安心する。だからもしこの景色が崩れる日がきたら、と思うと落ち着かない。落ち着かないからやめられない酒で明日の景色を壊すのも本末転倒だから、と今日も気付いて缶を捨てる。
さあ帰ろう、足に力を入れてみたものの驚くほどに立ち上がれず、酔いを自覚するとその場でへなへなと倒れ込んだ。仕方なく仰向けに寝転がる僕の鼻を潮風がくすぐる。そういえば気づかなかったけれどこの海はずいぶんと錆っぽい匂いがする。なにかに似ている、この匂いを知っている。記憶を辿ろうとすると、なぜか目の前のガレキのことが浮かんだ。まだ僕は酔ってるらしい。
暫くしてやっとの思いで酔いを覚ましたので今度こそと帰ることを試みる。浜辺からメトロの駅まで歩いて、最寄り駅へと乗る。その最寄り駅から家まで歩く途中には古ぼけた電器屋があって、軒先のテレビがいつもニュースを流している。
今日は旅客船が沈んだ話で持ちきりらしい。ニュースキャスターは悲惨な事故についてさまざまなことを喋ってるけれどどうにもうまく聴き取れない。ただ、とにかく大勢の人が亡くなったらしい。人が亡くなったらどこへいくんだろう?
――――――
どうしても思い出せないことがある。人は思い出したくないことを忘れられるけれど、最後まで忘れることはないらしい。その、最後まで忘れられなかったことの欠片が魚の小骨のように飲み下せないまま刺さっている。たとえばあの浜辺のマイルストーンはいつからあって、いつから通うようになったのだろう。誰の一周忌なのだろう。ただ弔わなきゃいけない人がいる気がして悲しくなるたびに通っている。なぜ?
ーーー気付くと僕は自分の家の玄関についていた。無事に帰れたらしい。ひとまずスーツを脱ぎ捨て、軽く残った酔いに任せて寝てしまった。
――――――
死後の世界は真っ暗闇だと聞いたことがある。何もないそうだ。つまり逆説的に言えばこれは僕が生きていてそして見ている夢になるのだと思う。だから今まで生きていた記憶と目の前の景色が混ざってここはいつまでも夜のままだしあの時しがみついたガレキは自分の墓代わりにそこで突っ立っている。そんな景色の中で僕はいつもどおり仕事をして帰る日々を繰り返している。これは走馬灯だ。だけど、もし。
降り注ぐ雨は一軒家くらいなら軽く飲み干せるほどの水溜りを作り、東京は大きな鏡になって向こうの景色を映し出している。正しい街は向こうの景色なのだろうけれど、僕のいるこの街ではクジラは道路を泳いでいる。イルカは木の上でのんびりと寝ているし、ペンギンは空高く飛んでいる。タバコに火をつけようとしたけれど、水中都市はもうライターがつかない夜だからあきらめた。お月さまはなんだかクラゲと見分けがつかないし、星に見えるあれだって実はプランクトンなんだろう。
昨日はタイタニック記念日、僕がいた船は今も。