それは言葉の端々から零れ落ちるような、主観であったり、他者についてなのだけれど。
たとえばそれは誰がが言ったことを聞いて、返すための言葉を濁し、溢れさせまいとする、その瞬間に見えたりする。
その度に何故だろう、不理解があるのだなと知ってしまった気になる。
そして。
その度に「目がどこにあるか」といったことについて考える。その目は誰のものですか、といったようなこと、とか。
昔はそういうのをお天道様、とか言ってましたっけ。
どうにも曖昧な、第三者の目と呼べるような何かを持って、自分のことだけでなく他人のことも見てしまう人はいるんだよね。
それがどういうことかっていうと、普通、だとか、周りは、とか、社会は、とか、そういった言葉に頼ってしまう、みたいなことなのだけれども。でもそれって半分くらいは正しくて、たぶん半分くらい別のところにあるんじゃないかと思い始めてきた。
もう一度。
目はどこにありますか。
たとえば言葉にしきれない不快感だとか、なんとなしに許せないものとか、それらに自分自身負い目があるとき、たぶん人の言葉を借りたくなることがあると思う。まるで誰かに見られているような言葉を、誰かから見た自分のことのようにして話してしまうような。
そこにある目って第三者ではないように、そう自分自身が作ってしまった目だと気付けずにいる。
そして目があるなら、見るものがあって。
それって感情なんじゃないかな、と思う。
その感情を自分が許せないこと、それを自分が作った他人が許せないことにして、感情を隠しこむ。そうして、幾重にも幾重にも自分を包んで守っているのかもしれない。
そのことに気付けなくなると、いよいよ自分が見えなくなる、気がする。
自分の手を離れていく目を取り戻してもう一度そのことを見ることは。
目は。