花の色と青い煙草

ダンス・ステップ・スラップスティック

春の歌

ちょっとしたショートショートの書き残し。

 

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僕には記憶が無い。自分が何者であるかも分からず生きている。気がついた頃には子供たちに囲まれて、善き遊び相手として、あるいはすこし夢見がちな子の聞き手としてずっと過ごしていた。

僕はその暮らしをとても気に入っていた。ときどき心無いイタズラをされてしまうこともあったし、その事で落ち込むことはあったけれどそれも僕の役目なら引き受けられるし、そのあとに優しくしてくれる子たちがいることを知っているからやっていけている。彼らにとってもたぶん僕のことは大切で、善き友人と思ってくれているのかもしれない。その事が少し嬉しい。そうそう、大切な友人だから、ということもあるしなによりも僕の口が堅いことをよく知っている子供たちからときどき秘密を打ち明けられることもある。

 この前は小学生の女の子から「クリスマスまでに好きな男の子に告白するんだ、上手くいくといいな」だなんて話を聞かせてもらった。僕は知っている、その彼は君にだけ雪合戦で雪玉を投げることを。そういう気持ちの表現はよくないと思うのだけれど、ただすこし微笑ましい。今度来るときは二人でくるのだろうか、それとももう僕とは遊ばないだろうか。

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あれからずいぶん歳をとった。僕はすこしくらいはいろんなことがわかりはじめたような気でいる。朝になれば日が昇ること、夜にはそれが沈むこと。影は後ろへと長く伸びゆくものだということ、その理由が季節にあること。肌に刺す寒気はやがてどこかへ行ってしまうことと、そのときには僕が溶けてなくなってしまうこと。
帽子と手袋、それから草臥れた木の枝の一本や二本で君は僕を思い出してくれるだろう。それならそれでいい。いや、すこし心残りがある。僕は君の温もりを知らない。その事だけが心残りになって、僕は溶け残っている。

秋飛ばし、

これはお盆のころの話。
夜の街を歩いていたらいつまでもいつまでも子猫がついてきて、もし猫を飼うとしたらこういう時だろうと旅先で思った。やがて横断歩道に着いてその子は渡れずに引き返していった。わたしがこの街に住んでいたら今頃はあの子を膝に抱えていたのだろうし、あるいはあの交差点を越えてまで着いてきたなら明日の朝帰ることを選んでいたのかもしれない。猫っていうのはマクガフィンかもしれない。猫でなければあるいは雨だったり、あるいはコインを投げてみてもいい。今のわたしなら両方表のコインを投げたい、持ってるコインは裏の気もする。いつかそうやってコインに委ねることをやめて、運命なんてクソ食らえだって笑いながらわたしが選んだ道を誇れたらいいと思う。
翌朝同じ道を歩くともうそこに猫はいなく、キャリーケースを引きずる音と走り去る電車の音、町を満たす暗騒音のなか駅へと歩いた。始まることもなく終わることもない。そういう不甲斐なさと向き合いながら、賽の目も見ずに猫と暮らす日に思いをはせていた。
でも猫っていいですね。あの夜に猫がついてきたことをしばらくは忘れられないままだし、これからも忘れる事はないと思う。
猫っていいですね。なにかが始まるような気がした。
 
これは夏が終わる前の話。
今年も九十九里浜にいって海遊び、をした。真夏のピークが去った海はすこし冷たくてそれでも楽しい。吹き荒む風の強さは濡れた体をすぐに乾かすからすこし身体が冷えすぎる。五感、だ。
その事を思い出しながら部屋で文章を綴る、どうも部屋で丸くなっていると昼か夜かも分からなくなる。いつでも映画が見たいからと買った遮光カーテンのおかげで部屋は暗く、それが自分の身体なのか、それとも自分が包まっている布団なのかも、抱きしめている身体なのかも分からない。
今日は独りで寝る。彼女がいない夜はすこしだけ寂しい。
真っ赤な嘘で頬を強く叩かれても覚める事のない夢を見ていた。
 
これも夏が終わる前の話。
真夏のピークが去ったときに花火大会に行ったわけでも会いたい人がいたわけでもないけど帰りの電車から眺める花火があまりにも悠然としていてどこか現実離れしていて自分のほほっぺたを確りとつねった。
ずっと友達でいれたらいいな、と思う人がいるけれどそういえば「友達のようにキスをする」ってどうすればいいのだろう?
ここにレンズで出来たびいどろ玉はないから、なおさら。
 
秋口です。
仕事終わりにいつもの道を駆け抜け、待ち合わせしたあの場所に車を停め、初めて会ったときのように旅先へと車を走らせる。
そして今わたしは温泉街でこの日記を書いている。数年ぶりの日記だけれど、多分次の日記も同じことを書いていると思う。
日々の小さな出来事なんて覚えていられないから、毎日きちんと綴らなきゃなと毎回言うのだけれど日記をつけられた事がない。
だからその事は置いておいてきょうのことを、と思う。
久しぶりに来た別荘は相変わらず埃っぽく、アレルギーの私はすぐに花粉症の如く。落ち着くころには帰らなきゃならないのがすこしだけ恨めしい。
ほんの少しの酒で酔った彼女は今隣の部屋で寝ている。期待したよりずっと静か、というのは親の心情の曲だったか。誰かがそばで寝ている夜は東京事変の夢のあとを思い浮かべる。


これも秋です。
 新宿のバス乗り場は誰かを迎えたり誰かを送ったりする場所だった。当時はバスタなんてなくって、ビルの隙間からのそりのそりと大きなバスが誰かを乗せて去っていった。

いまわたしはバスタにいる。あのころとちっとも変わらないピンク色のバスでこれから北陸へ向かう、友人に会うために。

ほどなくして着いたバスに乗り込む。

隣には今つきあっている恋人さんが座っている。こんな日が来るとは思わなかった、だいたいは見送るか、迎えるか。

誰かと一緒に押しかけて過ごすというのは不思議で仕方がない。

どうか楽しい旅になりますように。ほどなくしてわたしは眠った。

 

これは今日です。

職場から駅へ向かう道、川のほとり。

街路樹はピンク色のイルミネーションで飾られて冬を、というよりクリスマスシーズンの到来を報せている。

わたしはといえば仕事を終えて今日はなにをたべようかと迷っている。もうすっかり寒くなった気温についていけず、喉は荒れ鼻は詰まり気持ちもなんだか沈んでいる。

だからすこし嬉しいことを思い出そうとして結局三日坊主になった日記と、それから下書きのままのこの場所を掘り起こして清書を試みる。

猫の話、海の話。花火の話、温泉の話。それと、富山紀行。

この中でいちばん思い入れがあるのはもしかしたら猫なのかもしれない。猫は偉大だ。おずおずと近付いて、小さく鳴いた。それがなんだか嬉しくって、寂しくって。そうそう、さいきん電脳コイルというアニメを見た。子供の頃に見ていたアニメで、あの頃分からなかった話が今ならとてもよく分かる。とにかく見て欲しいのであらすじには触れないけれど、アニメの中で子犬に初めて触れるシーンをみて、ふと夏の猫を思い出した。あの頃は夏だったけれど今は冬、寒くないといいな、そう願ってる。

話は戻りますけれど今日のごはんはおうどんに決まりました。みなさま、よい夜を。

隠芽、因果。

 ねむの木に手が届くまで走り書きです。推敲も酔狂もない。
 
 起。
 ずっと前にいただいた種に水をあげていた。どんな芽が、どんな葉が、どんな花を、どんな実を、いつかの姿に思いをはせながらすごしていたのですけれど今年はよく芽が出る。今まで積み重ねてきた数年はどうだった、あのやり取りはどうだった、あの日の思い出はどうだった。どれも意味のあるものだったはず。それからの今年というものはまったく落ち着きというものがなく、喜怒哀楽が日々入り乱れるようなことばかり続いている。厄年、というのは迷信なのでしょう。けれど梅雨が終われば今度は台風と恵みの雨も少々気が荒い。四季にあふれている、思うことは数多くあれどどれも言葉にはならない。
 
 承。
 この人とはずっと友達としてすごせるだろうと思っていた人がいた。さよならくらい告げておけばよかっただろうか、いまさらになってそんなことを思ったりする。もう会うつもりもないだなんて言えずに、ただ何を喋っても伝わりそうにないから勝手に誤解していてほしいと噤んだのはよくなかったのかもしれない。黙ったまま見送った6月の改札を忘れることはなさそうだ。(意外とすぐに忘れてしまうのかもしれない、忘れてゆけるだろう、どれも本気で思っていて、どれも等しく信じてはいない。)
 
 転。
 映画を見に行った。ティーンの出てくる映画はいずれ来る大人を悲劇としか扱わない。大人になることは死ぬことだ、だなんていうけれど僕らはもう大人で、死んだことにされるのが心底たまらない。そしてそのメッセージをこめるのも、描くのもまた大人なんだ。なんだってそんなことばっかり言うんだ、大人や社会やいろんなものを死と呼んだあの頃の僕らに今殺されようとしていて、それに対して何も分かってないのは君たちなんだとやり合っている。死んでなんかいないし死んだことにしないでくれ、同じ姿のままだというのになぜ、それだけの話なのかもしれない。
 
 結。
 最終電車を逃した夜、始発電車を待つカラオケルーム。女王蜂の始発を歌っていた。けれどよくできた出来事があるわけでもない僕らには劇的な別れが来るわけでもなく運命に引き裂かれたりだとかすることもなく、一眠りしたらワイシャツとスラックスに着替えて働いている。

文書107

久しぶりのショートショートです。

雨がこの街を満たしている。帰るために潮の匂いを思い出そうとしていた。今日は一周忌だからいつも吸っていたタバコと缶ビールを手土産にもっていく。雨がこの街を満たしている。あれからみんなどうしてるのかな、僕は変わる事なく満員電車に揺られている。一つだけ変わったことがあるとすればあのころのように無理に詰めなくても今は電車に乗れる。雨がこの街を満たしている。あの時好きだった彼女も今は別の誰かと付き合ってる。時々寂しそうな顔をするけれど、そのたびに僕は忘れてしまえばいいよと向かいのマンションの屋上から祈る。雨が。
――――――
どれほどそうしていただろう。マイルストーンのように浜辺に突き刺さったガレキの前で一人飲んでいた。静かにタバコをくゆらし、引っかき傷のように彫りこんだ自分の名前を眺めていた。いつもなら安いチューハイだとか発泡酒なのだけれど今日は一周忌だ、そろそろ帰らないと明日の仕事に響くとは分かっていてもビールを開ける手が止まらない。酔っ払った頭はまたいつもの問答を始める。夢の中くらい仕事をしなくてもいいのに、と思うのだけれどずっと見てきた景色だからいまさらやめられないし、不思議と安心する。だからもしこの景色が崩れる日がきたら、と思うと落ち着かない。落ち着かないからやめられない酒で明日の景色を壊すのも本末転倒だから、と今日も気付いて缶を捨てる。
さあ帰ろう、足に力を入れてみたものの驚くほどに立ち上がれず、酔いを自覚するとその場でへなへなと倒れ込んだ。仕方なく仰向けに寝転がる僕の鼻を潮風がくすぐる。そういえば気づかなかったけれどこの海はずいぶんと錆っぽい匂いがする。なにかに似ている、この匂いを知っている。記憶を辿ろうとすると、なぜか目の前のガレキのことが浮かんだ。まだ僕は酔ってるらしい。
暫くしてやっとの思いで酔いを覚ましたので今度こそと帰ることを試みる。浜辺からメトロの駅まで歩いて、最寄り駅へと乗る。その最寄り駅から家まで歩く途中には古ぼけた電器屋があって、軒先のテレビがいつもニュースを流している。
今日は旅客船が沈んだ話で持ちきりらしい。ニュースキャスターは悲惨な事故についてさまざまなことを喋ってるけれどどうにもうまく聴き取れない。ただ、とにかく大勢の人が亡くなったらしい。人が亡くなったらどこへいくんだろう?
――――――
どうしても思い出せないことがある。人は思い出したくないことを忘れられるけれど、最後まで忘れることはないらしい。その、最後まで忘れられなかったことの欠片が魚の小骨のように飲み下せないまま刺さっている。たとえばあの浜辺のマイルストーンはいつからあって、いつから通うようになったのだろう。誰の一周忌なのだろう。ただ弔わなきゃいけない人がいる気がして悲しくなるたびに通っている。なぜ?
ーーー気付くと僕は自分の家の玄関についていた。無事に帰れたらしい。ひとまずスーツを脱ぎ捨て、軽く残った酔いに任せて寝てしまった。
――――――
死後の世界は真っ暗闇だと聞いたことがある。何もないそうだ。つまり逆説的に言えばこれは僕が生きていてそして見ている夢になるのだと思う。だから今まで生きていた記憶と目の前の景色が混ざってここはいつまでも夜のままだしあの時しがみついたガレキは自分の墓代わりにそこで突っ立っている。そんな景色の中で僕はいつもどおり仕事をして帰る日々を繰り返している。これは走馬灯だ。だけど、もし。
降り注ぐ雨は一軒家くらいなら軽く飲み干せるほどの水溜りを作り、東京は大きな鏡になって向こうの景色を映し出している。正しい街は向こうの景色なのだろうけれど、僕のいるこの街ではクジラは道路を泳いでいる。イルカは木の上でのんびりと寝ているし、ペンギンは空高く飛んでいる。タバコに火をつけようとしたけれど、水中都市はもうライターがつかない夜だからあきらめた。お月さまはなんだかクラゲと見分けがつかないし、星に見えるあれだって実はプランクトンなんだろう。
昨日はタイタニック記念日、僕がいた船は今も。

私の中で死にゆくあなたを誰も止められなかった。

好きな人に会うときに雨が降るに違いないと言えていたのに、そのうち会うときに雨が降らなかったらどうしよう、という恐れを抱くようになり、雨が降らなかったことになにも思わなくなったらどうしよう、と。

最後に忘れるのか、どうか。

私がいつかいなくなってもあなたが少し悲しいだけで時は進むだろうし、居なくなることを選ぶ訳ではないけれど、いつの間にかなくなる水溜まりのように、気付いたら雨は枯れるのかもしれない。

時を置けばそうなるのかもしれない。


その時、私の中に住んでいたあなたは死んでしまう。

その時、あなたの中に住んでいた私は死んでしまう。


忘れてしまえば、人は死んでしまう。

関係性の中にいてやっと心というものは生きる、ということがどういうことか分かり始めた気がする。


そういえば私はいろいろな人に出会ったり別れたりするけれど、なぜか3ヶ月くらいで元の距離かそれ以上に離れることが多いなと思う。

 人と人が出逢えるのはめぐりめぐりゆく生き様の交点で、同じ幅で歩かない限り長くは過ごせないと昔書いた気がするけれど、多分その交点がその長さなのだろうか?

そこから離れたら、互いに強く残るものが何かに出会わせなければ死んでしまう。


私は私を生きようとして離れ、あなたはあなたを生きようと離れる。

死ぬことを止められはしないのだ、それが生きることなら。


寂しいことには変わりないのでどうにか居てください。

淡桃去って緑。

場違いの雪と桜に写真機。

散って春、茂って春。

さて数日前。春の桜、なぜか雪化粧をして佇んでいたと聞きます。淡いあの色彩に重ねた無彩色が見せてくれた端麗な姿を私自身は見ることが出来ないでいましたけれど、切り取られたそれを見る機会には恵まれていて日付も変わらないうちに私のなかに焼き増しされていました。
されど気付いたら上着もなく家を飛び出せる陽気だし、外に置いた飲み物は冷えてくれなくなってる。
鎖骨の先まであった長い髪を久しぶりに切り落としたし、その変化は新しくなった気分を呼び起こして心身ともに春を迎えている。

ああ、春だ。

冬が終わってしまったことが寂しくはあるのだけれど、どの季節だってそう言ってる気がするし、もしかしたらいつだって僕らは誰にも邪魔されず寂しさを抱えてるのかもしれない。ワールズエンド・スーパーノヴァ
春を言い訳にします。夏を言い訳にします。秋を言い訳にします。冬を言い訳にします。
でもあなたを言い訳にしたくないな、居てくれたら嬉しい、それですべてにしておきたい。

茂って春、新緑です。

もう話題も散らばってしまってるし書きたいことを勝手につらつらとしていきますね。

ずっと身体の居場所を意識させることをしたくなかったな、と思うことがある。
たとえばこのブログだったり、身体を置き去ってただ言葉だけ遺しているような姿になりたくて、身体のない姿になりたくて、できるだけ身体を持っていることに触れないようにしていたりするし、すぐにそうしてしまう。髪を切ったことを書くことすら躊躇ってしまった。
もしかしたらわたしはお化けなのかもしれない。地に着く脚を失いたいのかもしれない。
それは尖鋭した思考に表れるのか、文字しか見ていない人は私が在るか分からなかったそうだし、会っても目の前の身体を私と思えなかったと言っていた。
尤も、その人も同じように在るか分からない人であったのだけれど。

だからこそ身体を取り戻せと言いたくなる時もあるし、どちらも同じ事なんだろうね。身体性への言及ですし。

なんとなく書きたいことはこの事だった気がするし、書き終わってしまったし、普段より書いてる人の存在、みたいなものが強く出てきてしまったけれど、おしまい。

境界線に触れて識るあなたの輪郭。

実は自分から人に触れられない病を抱えて生きている。


その病はどんな関係性を相手にしても表れてしまうしキスはおろか肩に触れることすら戸惑う。握手やハグ以上はどうしても気を遣ってしまうし、触れていいか聞くだけでも戸惑ってしまうのであった。

昔は経験のなさがそれを生むのだと思っていたけれど、そうではなくて私自身の性質のような気がしてきた。
受け入れてもらえないこと、嫌われないことが怖いとかではなく、なんだろう、他人に侵食することへの畏れといえばいいか。
だから触れたいなーとおもいつつ別に触れることはしないし本を読んだり好きなことをしてるし、べつにその事にぐるぐる悩んだりはしない、そこは私の悩むところではないだろうから。
けれどこうやって言葉にしたいときもあるのだった。


つまるところ私が人に触れる時はその相手に最大限の敬意を払って触れているし、これからもそうやって触れていこうと思う。