花の色と青い煙草

ダンス・ステップ・スラップスティック

私の中で死にゆくあなたを誰も止められなかった。

好きな人に会うときに雨が降るに違いないと言えていたのに、そのうち会うときに雨が降らなかったらどうしよう、という恐れを抱くようになり、雨が降らなかったことになにも思わなくなったらどうしよう、と。

最後に忘れるのか、どうか。

私がいつかいなくなってもあなたが少し悲しいだけで時は進むだろうし、居なくなることを選ぶ訳ではないけれど、いつの間にかなくなる水溜まりのように、気付いたら雨は枯れるのかもしれない。

時を置けばそうなるのかもしれない。


その時、私の中に住んでいたあなたは死んでしまう。

その時、あなたの中に住んでいた私は死んでしまう。


忘れてしまえば、人は死んでしまう。

関係性の中にいてやっと心というものは生きる、ということがどういうことか分かり始めた気がする。


そういえば私はいろいろな人に出会ったり別れたりするけれど、なぜか3ヶ月くらいで元の距離かそれ以上に離れることが多いなと思う。

 人と人が出逢えるのはめぐりめぐりゆく生き様の交点で、同じ幅で歩かない限り長くは過ごせないと昔書いた気がするけれど、多分その交点がその長さなのだろうか?

そこから離れたら、互いに強く残るものが何かに出会わせなければ死んでしまう。


私は私を生きようとして離れ、あなたはあなたを生きようと離れる。

死ぬことを止められはしないのだ、それが生きることなら。


寂しいことには変わりないのでどうにか居てください。

淡桃去って緑。

場違いの雪と桜に写真機。

散って春、茂って春。

さて数日前。春の桜、なぜか雪化粧をして佇んでいたと聞きます。淡いあの色彩に重ねた無彩色が見せてくれた端麗な姿を私自身は見ることが出来ないでいましたけれど、切り取られたそれを見る機会には恵まれていて日付も変わらないうちに私のなかに焼き増しされていました。
されど気付いたら上着もなく家を飛び出せる陽気だし、外に置いた飲み物は冷えてくれなくなってる。
鎖骨の先まであった長い髪を久しぶりに切り落としたし、その変化は新しくなった気分を呼び起こして心身ともに春を迎えている。

ああ、春だ。

冬が終わってしまったことが寂しくはあるのだけれど、どの季節だってそう言ってる気がするし、もしかしたらいつだって僕らは誰にも邪魔されず寂しさを抱えてるのかもしれない。ワールズエンド・スーパーノヴァ
春を言い訳にします。夏を言い訳にします。秋を言い訳にします。冬を言い訳にします。
でもあなたを言い訳にしたくないな、居てくれたら嬉しい、それですべてにしておきたい。

茂って春、新緑です。

もう話題も散らばってしまってるし書きたいことを勝手につらつらとしていきますね。

ずっと身体の居場所を意識させることをしたくなかったな、と思うことがある。
たとえばこのブログだったり、身体を置き去ってただ言葉だけ遺しているような姿になりたくて、身体のない姿になりたくて、できるだけ身体を持っていることに触れないようにしていたりするし、すぐにそうしてしまう。髪を切ったことを書くことすら躊躇ってしまった。
もしかしたらわたしはお化けなのかもしれない。地に着く脚を失いたいのかもしれない。
それは尖鋭した思考に表れるのか、文字しか見ていない人は私が在るか分からなかったそうだし、会っても目の前の身体を私と思えなかったと言っていた。
尤も、その人も同じように在るか分からない人であったのだけれど。

だからこそ身体を取り戻せと言いたくなる時もあるし、どちらも同じ事なんだろうね。身体性への言及ですし。

なんとなく書きたいことはこの事だった気がするし、書き終わってしまったし、普段より書いてる人の存在、みたいなものが強く出てきてしまったけれど、おしまい。

境界線に触れて識るあなたの輪郭。

実は自分から人に触れられない病を抱えて生きている。


その病はどんな関係性を相手にしても表れてしまうしキスはおろか肩に触れることすら戸惑う。握手やハグ以上はどうしても気を遣ってしまうし、触れていいか聞くだけでも戸惑ってしまうのであった。

昔は経験のなさがそれを生むのだと思っていたけれど、そうではなくて私自身の性質のような気がしてきた。
受け入れてもらえないこと、嫌われないことが怖いとかではなく、なんだろう、他人に侵食することへの畏れといえばいいか。
だから触れたいなーとおもいつつ別に触れることはしないし本を読んだり好きなことをしてるし、べつにその事にぐるぐる悩んだりはしない、そこは私の悩むところではないだろうから。
けれどこうやって言葉にしたいときもあるのだった。


つまるところ私が人に触れる時はその相手に最大限の敬意を払って触れているし、これからもそうやって触れていこうと思う。

報われようぜ。

報われようぜって叫びたいのよ、いろいろあったりするし、悲しかったり嬉しかったりいろいろあるけれど、報われてもいいんじゃないかなって。



訳もわからないまま最初の一年みたいなものを通りすぎて、最後にこの曲が残って、報われようぜって歌ってる。
いろいろあったよな、それでさ、まあなんていうか、お疲れさま、私はこうだった、あなたはどうだった?みたいなさ。

そんなこと話しながら、報われようって言いたい。



大人の住処。

夜にしか生きることができなくなってるのかもしれない。

地元に鳴り響く寺の鐘で夕方と知り、急いで家に帰る。あの頃の私にとって暮れ行く空はその日の終わりを意味してた、ように覚えてる。
それはありふれた日常だった。



そんな日常からは遠く、今。

夜が当たり前になっていた。
歌を聴けば夜を歌ってるし、大切な人と言葉を交わすのも夜だし、日が暮れてからやっと息が出来るようになっていた。
草木も眠る丑三つ時なんていってた時間と仲良しだし、朝日を眺めることもあった。



夜を満たすものは際限なく増えていくのにその夜で満ちることはないかもね。

でも、夜を探している。


在る朝日。

旅をしていた時の話。
私はある人に会った。名前も、仕事も、何も知らないその場限りの出会い。
その出会いは偶然が生んだもので、再現なんて出来ないもの、けれどとても大切に思っている。
彼はこんな話を初対面の私に続けてくれた。

「みんな何かをするたびにあまりにも急ぎすぎると思うんだ。
たとえば僕の友人は何かをしてはすぐに意味がなかったと嘆く。でも、それは違うと思う。

何かをして、その意味が分かるのは少なくとも10年はかかると思うんだ。それが良かったのか、悪かったのか、それもあるだろう、それだけではない。それで何を得られたかだなんて、10年経って、得られたものがある自分に気付いて、その行動の意味を知るんだ。

だからね、判断を急いではいけないよ。その行動をしたこと、それだけを心に留めておくんだ。いつかきっと思い出して、自分のものになる。

出来るだけ多くのことをして、そのことをありのままに覚えているといいと思うんだ。良くも悪くもないんだよ、行動が意味を持つこともある。」

うろ覚えながらもその言葉は私にきちんと残っていた。
その人はゆっくり絞り出すように、そんなことを教えてくれたのだった。

「そういえば君、喫煙者と言ってたのに吸わなかったね。」
「あまりにも話が楽しくて。良い出会いになってよかったです。」
「僕もそう思う。もう着くけれど一服しよう。」

そうして、喫煙所に向かって、彼がくれたタバコを吸いながら朝日を眺めたこと、彼がくれた温かい飲み物が染み渡ったこと、多分忘れられないと思う。

尊い朝だった。二度とない出会いだった。

その会話をあと10年経って、もう一度噛みしめる事は。

鏡写しの会話。

誰かと喋っていて、正しく人と会話できているのだろうか、と不安になることがある。正しい会話、というものがそもそもとても怪しいものではあるのだけれど。

誰かと会話するってことはここに私がいて、あなたがいて、私はあなたに喋って、あなたは私に喋ることになるんだけど、それができないということがある。
どちらかが相手じゃない人と喋り出したらもう会話は成り立たない。
2人で会話していてそんなことが起きるのか、と思うけれどそれなりによくあることだった。

たとえば。

人は誰しも彼しも思い込みを持つ。(これ自体が思い込みかもしれないことはひとまず置いておいて。)
その思い込みの中で自分が関わることのイメージ、たとえば「誰々はこういう人だ。」だとか、そんなものを自分の中に積み上げていく。
でもそれは自分が切り出したその何かのイメージであって、その何かそのものじゃないことも往々にしてある。
だから思い込みだよ、だなんて訂正していければいいのだけれど、これが人同士ともなるととても面倒で、もうクレイジーケンバンドのように叫びたくなるし、俺の話を聞け、ってなる。

そう、会話してる相手がその思い込みを相手に喋りだす、とか。
そうなれば目の前にいる私はその人にとってどうでもいい存在になるし、思い込みの中に住んでる私の虚像とひたすら会話をしちゃう。それって自問自答の堂々巡りになって、ほんとはその思い込みを解くのが会話のはずなのに、拍車をかけてしまう。

ねえ、あなたは誰と喋ってるの?本物はここで喋ってる私だよ。

きちんとその人が言ったこと、やったこと、感情、それらに目を向けずにイメージで語られても、そこに私はいないし、ともすればそれは鏡写しで喋ってるんだろうね。
その鏡を割った先にその人はいるよ、割って、喋って、鏡にいたのは自分かもしれないと気付いていければ。

正しく人と会話することってとても難しいのかもしれない。