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誰かがいった。

そうじゃなくて私が言った日常の何か。

相互不理解のまま生きてゆく。

小学生のころ読んだお話をもう一度、マンガ版ではあるのだけれど読み直す機会があった。

当時、おおきなポケットとか読みながら触れたこの作品。

懐かしさとともに、あの頃と全く違う世界が見えていた。

 

あらしのよるに

 

お互いが不理解や、別の生き物であることなどを抱えたまま生きること。

 

ディスコミュニケーション

 

そんなものを抱えて生きる今になって、なんとなく、そういう話だったんだろうなといろいろなことについて思いをはせることになった。

このシリーズの中で最も好きなシーンをあげるのは難しいけれど、一つ浮かべるとするなら、それはガブの食事にメイが嫌悪感を示すあの瞬間だろうなと思っている。

 

関係性の前に個人があり、そこは譲歩などすることもある。

ガブは山羊を食べなくなった。

けれど、やはり、生きるために食べることはやめない。ふと、そこで餌を食べることを選べなくなったこととかを思い出してしまったんだ、いや、餌を食べるために相手を切り捨てるしかなくなったことも。

ここでの餌は、趣味でも興味でも何でもいい、そういったものに読み替えられるように思った。私は生きるために、私であるために、いろいろなものを選ぶ。あなたが嫌うそれを喜んで欲することだっていくらでもありふれていて、逆もそうなんだろう。

それを辞めなくてもいいはずだし、辞めさせることもできないはずなんだ。

それが当たり前に提示されていた、いや、もうすこし肯定してほしくはあったのだけれど。

 

同じものを食べ同じように暮らす生き物にならなくとも繋がることができる話、というか。

 

 

 

追伸。この話は恋の物語ではない、という解釈がとても好きですし、性別も与えられずに話が続いていく読み方が、なんだか暖かかったです。

 

あらしのよるに全7巻セット (あらしのよるにシリーズ)

あらしのよるに全7巻セット (あらしのよるにシリーズ)

 

 

生は黒、死は白。

喪に服すことをする私達は全身に黒を纏い、死の色を黒と思い込ませる。
亡くなったあの方は彩りを添える花に囲まれ、白い服はなおいっそう華やかになっていた。

いつからか、死は黒く冷たいことだと思うようになっていた。
音のない場所、見渡せば黒と花、さまざまな哀しさを見せる顔、顔。

生きてる人が纏うのは黒で、だから棺から世界を眺めたら黒は生の象徴で。
不思議だ。

生きること、死ぬことを軽々しく話題にしすぎるきらいがある。
身体がどうにも置いていかれて、概念だけを先に走らせる。

それを一つに取り戻せるのが死なのではないか、と答えが永遠にわからないことを考えたりもする。

ううん、話が膨らんで逸れてしまいそう。

べつにいいや。

黄色い蛇に咬まれたい。

最後に彼は星へ帰れたのでしょうか。

海も空も青々としている。

街路樹は若い青を堂々と魅せつけるし、触れるものはみんな青々としてその姿を景色に溶け込ませている。
どれも同じ青という言葉で語っているけれど、その青だけで景色を埋め尽くしていて、なのにコントラストが綺麗なのだった。

日記終わり。

さてどれだけ言葉を尽くしても伝わらないときはある。そんなときにさらに言葉を重ねようとしてさらに誤解ばかり、何を言えばいいかも分からない。そんなことがあったりする。

同じ言葉を使ってるかも分からないし、同じものを指してるかも分からない。
でも全部青いのは嘘じゃなかった。

想像している、頭の中にある、現実に広がるそれを言葉にしきれない、そのものを表現はいつだってできない。
言葉だけでないのかもしれない、表現することは常にそうだとも、それを交わすことが難しいとも知ってるのかもしれない。
私の主観は誰も知り得ないし貴方の主観を覗けないだけのことなのだ。それはお互いにそうで。

でも伝えることを諦めたくない、私が思うことを、貴方の想像しえないそれを、伝えていたい。
そんなことを伝えたかったわけじゃなかったし、いや、否定したいわけでもなく、どちらの意味合いも持たせたくなく、そこに私の言葉を置きたかったし、そのなんたるかを曖昧のまま勝手に解釈されたりしながら伝えたかったのです。

言葉はいつも半分正しくて半分間違っているし、私の言葉とあなたの言葉が同じかなんて分からないけれど諦めず伝えていたいよな。

私の中で死にゆくあなたを誰も止められなかった。

好きな人に会うときに雨が降るに違いないと言えていたのに、そのうち会うときに雨が降らなかったらどうしよう、という恐れを抱くようになり、雨が降らなかったことになにも思わなくなったらどうしよう、と。

最後に忘れるのか、どうか。

私がいつかいなくなってもあなたが少し悲しいだけで時は進むだろうし、居なくなることを選ぶ訳ではないけれど、いつの間にかなくなる水溜まりのように、気付いたら雨は枯れるのかもしれない。

時を置けばそうなるのかもしれない。


その時、私の中に住んでいたあなたは死んでしまう。

その時、あなたの中に住んでいた私は死んでしまう。


忘れてしまえば、人は死んでしまう。

関係性の中にいてやっと心というものは生きる、ということがどういうことか分かり始めた気がする。


そういえば私はいろいろな人に出会ったり別れたりするけれど、なぜか3ヶ月くらいで元の距離かそれ以上に離れることが多いなと思う。

 人と人が出逢えるのはめぐりめぐりゆく生き様の交点で、同じ幅で歩かない限り長くは過ごせないと昔書いた気がするけれど、多分その交点がその長さなのだろうか?

そこから離れたら、互いに強く残るものが何かに出会わせなければ死んでしまう。


私は私を生きようとして離れ、あなたはあなたを生きようと離れる。

死ぬことを止められはしないのだ、それが生きることなら。


寂しいことには変わりないのでどうにか居てください。

大きな忘れ物。

さいきん生まれてはじめてボルダリングをやってみた。
身体を伸ばし、つかむ。脚を動かす。登る。
何度も繰り返し落ちるうちに、手が伸びること、脚が伸びることに気付く。
そして手が届くようになる、足が届くようになる。
私は気付く、身体を失っていた。

私の身体はどうやら大きいらしい。
だから時にはその事が人にネガティブな感情をもたらすこともあるかもしれない。それを忘れかけていて、小さい身体であるように振る舞っていた。
けれど身体を動かしている間に、自分の身体の大きさを全身の感覚で思い出せたのであった。

となると今度はこんなに身体が大きいのに、どうやって柔らかく過ごそうかと悩み始めたりする。
そうして、また身体を失って考える生き物になる。
私はその間をぐるぐる回ることしかできないのかもしれないな。

小さな部屋に木漏れ日。

微睡んだ昼過ぎ、庭から射し込む光は暖かく、ゆらゆらと身体を溶かしている部屋は柔らかい空気と、静けさが支配している。好きな人と自分がそこにいる。
ありふれた光景かもしれない。
そんなものを望んでしまうんだなあ、と自分の願いを言葉にすることが怖かった。ずっと恐れていたし、今も恐れてしまう。石橋を叩き壊すように生きている。
自身がその願いをあまり好んでこなかったから、言い出すことはその何倍も好めず、けれど願ってしまうことをもう隠しきれず、人間らしいと自分を笑いながら幸せをつかもうとしている。
私はときめきと安定とがほしいのかもしれない。

けれどなぜかそれをまっすぐ願えないし、ともすればすぐに見世物とばかりになにかをしてしまう。それもたのしいし、すきなことを否めないのだけれど、例えばアイスを二人で分けて食べたりしていたかった。

不思議だな。

なんか恋に恋する女の子みたいになってしまった。
恋ではなくあなたに恋をしたいな。

なにが誰なんだ。

その人をその人たらしめるものとは。

なんだろうね、ある物語を思い出したんです。脳の一部を取り替えたらロボットになってしまった青年。彼は人が人に見えなくなって、ロボットに優しさを、暖かさを見いだしていた。
何がその人を。

誰かがわたしと同じ名前を名乗れば、ほかの誰かはその人をわたしと思うのかもしれない。あるいは。わたしが別の名を語れば、騙れば、それはわたしでなくなってしまう。

自分が自分であることはあまりにも脆い。記憶を喪えば本当に別の人になるのかもしれない。そんな人に会ったことがあった。

わたしはどうやってわたしであることができるのだろう。
そう考えるといつも背筋が静かに冷たくなってゆくような思いがする。